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そろばんがこいをかたるはなし
算盤が恋を語る話
江戸川 乱歩
「写真報知」報知新聞社、1925(大正14)年3月15日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 8,096 字 · 16 页
思惑ったTは、ぼんやりと彼女のあとを見送ったまま、席を立とうともしませんでした。
「ざまを見ろ。お前の様な男は、年が年中、こつこつと仕事さえしていればいいのだ。恋なんか柄にないのだ」
彼は我と我身をのろわないではいられませんでした。そして、光を失った悲しげな目で、じっと一つ所を見つめたまま、いつまでもいつまでも甲斐ない物思いにふけるのでした。
ところがしばらくそうしている内に、彼はふとあるものを発見しました。今まで少しも気づかないでいた、S子のきれいにかたづけられた机の上に、これはどうしたというのでしょう。彼が毎朝やる通りに、あの算盤がチャンとおいてあるではありませんか。
思いがけぬ喜びが、ハッと彼の胸を躍らせました。彼はいきなりその側へ寄って、そこに示された数字を読んで見ました。
「八十三万二千二百七十一円三十三銭」
スーッと熱いものが、彼の頭の中に拡がりました。そして、にわかに早まった動悸が、耳許で早鐘の様に鳴り響きました。その算盤には彼のと同じ暗号で「ゆきます」とおかれてあったのです。S子が彼に残して行った返事でなくてなんでしょう。
彼は矢庭に外套と帽子をとると、机の上をかたづけることさえ忘れて終って、いきなり事務室を飛び出しました。