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はこねのやま
箱根の山
田中 英光
「文藝春秋 別冊2」1946(昭和21)年5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,963 字 · 33 页
待っていた。
三分、五分、一郎の姿は少しも現われない。「一郎ッ、一郎ッ」声を挙げて呼んでも、返事がないので急にひどく不安になり、ガサコソ藪を掻き別け、茨で頬を引き裂かれるのも気づかぬ気持で降りて行くと、やがてかなり下の方に、一郎の笹にでも掴っているらしい小さな姿がみえた。「一郎ッ、おい一郎ッ」一郎はその声に顔を上げ、藪越しに私の姿がみえたらしく、急にワアァンと声を挙げて泣きだしたから、バカな親父で、私も一度に眼頭が潤んだが、「チキショウメ」と思い、怖い声で、「こらッ一郎ッ、自分ひとりで上まで登れよッ。お父さんは迎えに行ってやらないぞッ。貴様がもし登れなければ、夜になっても上で待っていてやるから」こう呶鳴りつけると、胸をどきどきさせながら、さっさと上の街道に上って来てしまい、ひたすら、一郎の泣き声に耳を澄ましていた。泣き声は止み、五分、十分、ついにガサガサ言う音が近くなり大きくなったと思ったら、間近の茨の繁みから、地面を這った一郎の顔が、思いつめた怯えた小犬の表情でヒョイと出て来た。帽子もない、靴もない、靴下と膝頭を泥だらけにし、頬と手から血を流し、まあるい瞳を見張っていたが、私の顔が眼に這入るなり、無言でぼろぼろ大粒の涙を零し始めた。