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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
「そうそう、喰べかけはお行儀が悪いね」
菊千代はこう云って頭を撫でてやった。佳玖子はまた暫く月を眺めていたが、またこちらを見あげ、月を指さして云った。
「あのお月たま誰がたべかけたの」
そのときのこちらをふり仰いだ顔、頬が赤くよく肥えた、おちょぼ口をひき緊めた、しかつべらしい顔は忘れることができない。その後も欠けた月を見るたびに、菊千代はよくそのときのことを思いだすのであった。
中屋敷へ帰ると暫くして、剣術と柔術はやめることになり代って薙刀の稽古を始めた。学問も和学に変った。……父の命令だということであるが、ほかのものはとにかく、柔術だけは続けてやりたかった。それで隙をみては半三郎を誘って揉みあった。
「やわらは禁じられたのですから、みつかるとお咎めをうけますから」
半三郎はそんなふうにいって、なるべく避けようとしたし、稽古ぶりもごく軽くなった。菊千代としては彼のきびしい極め手が好きで投げられたり押えこまれたりすると、相撲のときとは段違いな快さを感じる。ことにそのじぶん半三郎のからだに、一種のかぐわしい匂いがで始めて、揉みあって汗をかくと、それがいっそう強くなる。