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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
自分の屋敷を持ってから約二年くらい菊千代は比較的おちついた気持で過した。親族のあいだでは屋形の地名を取って「中山殿」といわれていたが、彼女は父に会う以外は決して親族と往来しなかった。……歌舞伎芝居を観たり、遊芸人を呼んで酒宴をしたり、市中の盛り場を見てまわったり、笛の稽古をしたりしたのはこの期間のことである、だが笛のほかはみなすぐに飽きた、心からひきつけられるようなものは一つもなかった。
――人の世とはこんなものだろうか。
自分で思いつくこと、まわりからすすめられること、彼女の身分で可能なことはたいていやってみたが、やってみるにしたがって失望が大きくなるばかりだった。
――もっとなにかあるはずだ。この胸をどきどき高鳴らせてくれるような、なにかが、……それともこれが世の中というものなのだろうか、自分を夢中にさせてくれるようなもの、全身でうちこめるようなものはないのだろうか。
そのころ昌平黌の教官で平松なにがしという学者がいた。陽明を教えたので学問所を追われたということを聞き、菊千代が彼を招いて老子の講義を聴いた。また芝の正眼寺へかよって禅もまなんでみた。