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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
なにか遠い記憶にありそうだった。けれどもそれがなんであるか、どうしても思いだせそうにない。菊千代は頭を振って、藪の脇から堰に沿った道へと曲っていった。
屋形のある丘の裾へ出ると、表の黒門へゆく途中に農家が三軒ある。丘の下の、竹藪や雑木林に囲まれた、じめじめした陰気な一画で、三軒ともすっかり住み古し、殆んど朽ちかかったあばら屋であるが、……そのいちばん道に近い家のものらしい、物置小屋のようなものの前に、屋形の侍と下僕とが四、五人いて、声高になにか云っているのが見えた。
菊千代は黙って通り過ぎようとしたが、「いや、ならん、すぐに立退け」こう云うのを聞いて足を停めた。立退けというのは穏やかでないと思った、それでつい知らずそっちへ近づいていって、どうしたかと声をかけた。……侍や下僕たちは驚いてそこへ膝をついた。するとその小屋の中に、ひどく痩せた男が一人、じっと頭を垂れているのが見えた。
「どうしたのだ、その男がなにかしたのか」
「いろいろうろんなことがございますので、立退くように申し渡しているところでございます」
「うろんなこととは、どんなことだ」
「彼は三月ほどまえに此処へ住みついた者でございますが」