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きくちよしょう

菊千代抄

山本 周五郎

「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页

青空文庫

母の顔はよく思いだせないが、むくんだような頬にこぼれ落ちた涙や、詫びるような祈るようなその声は、まざまざと記憶からよみがえってきた。自分の手を握った痛いほどの力も、そのまま自分の手に残っているようだ。

――お可哀そうな、菊さん。

母の言葉の意味が初めてわかる。自分が上屋敷へ訪ねていっても、どこかよそよそしくて、自分の姿から眼をそらすようにした。……母は自分のおとこ姿を見るに耐えなかったのだ、家の古い伝承には従わなければならない、しかし初めて産んだ娘が男としてそだてられるのを、母は平気では見ていられなかった。いつも哀れがり、可哀そうだと思っていたのだ。

――お母さま。

菊千代は眼をつぶって、心のなかでそう呼びかけた。

自分はなぜ母の言葉を思いだしたか。十余年もまえの、しかもそのときはわけもわからず、ただきみが悪いとしか感じなかったことを、なぜとつぜんに思いだしたか。いま菊千代には理解することができる。それは竹次夫妻の劬り愛しあう姿を見たからなのだ、そのように深く良人に愛されているおいくの姿を見たからである。自分はかつてそのように愛されたことがない、主従の関係はあるけれども、女としては一度も、誰からも愛されなかった。