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きくちよしょう
菊千代抄
山本 周五郎
「週刊朝日春季増刊」朝日新聞社、1950(昭和25)年4月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,178 字 · 72 页
二
……泳ぎに誘ったのもその一つで、彼はすでに幾たびも小名木川で、ひそかに泳いだことがあるというのであった。
「いい気持ですよ、流れの早いときは危ないけれど、なんでもありゃしない、こういうぐあいに水を切ってね、すぐ泳げますよ」
「みつかったらじいに怒られるからね」
「そっとぬけだすんですよ、お昼寝のときにそっと……すぐ帰って来ればわかりやしません、大丈夫ですよ」
それはかなり強い誘惑であった。青い冷たい水の深みや、波立っている広い川の景色がみえる。そこへ頭からとびこんで、飛沫をあげて泳ぎまわる、……いさましく抜手を切って、自在に泳ぎまわる自分の姿が想像され菊千代は胸がどきどきしたくらいであった。
二
主税の誘惑に負けて、屋敷の外へぬけだしたのは、曇っていて風の強い日であった。
その付近は大名の下屋敷が点々とあるほか、なになに新田などという地名の多い、まったくの田舎であって、田畑や沼地や風よけの疎林がうちわたして見え、晴れた日には筑波山まではっきり眺められる。対岸は名だかい天神社のある亀戸村で、そっちにはかなり人家が見えるが、川とのあいだには畑や広い草原があり、子供たちには恰好な遊び場になっていた。