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たでくうむし
蓼喰う虫
谷崎 潤一郎
「大阪毎日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月17日<br>「東京日日新聞 夕刊」1928(昭和3)年12月3日~1929(昭和4)6月18日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 110,066 字 · 216 页
老人は近頃「酒は塗り物に限る」と云い出して、その杯も朱塗りに東海道五十三次の蒔絵のある三つ組のうちの一つであった。御殿女中が花見にでも行くようにこう云うものを研ぎ出しの提げ重の抽出しへ入れて、飲み物から摘まみ物までわざわざ京都から運んで来るのでは、茶屋に取っても有り難くない客であろうが、お久もずいぶん気骨が折れるに違いあるまい。
「お一つどうどす?」
そう云って彼女は、新たに抽出しから出した杯を要にさした。
「有り難う、僕は昼間は飲まないんだが、………外套を脱いだら何だかうすら寒いから、少うしばかり戴きましょう」
髪の油か、何か分らないが、忍びやかな丁子のにおいに似たものが、彼女の鬢の毛と共にかすかに彼の頬にさわった。彼は己れの手の中にある杯の、なみなみと湛えた液体の底に金色に盛り上っている富士の絵を視詰めた。富士の下には広重風の町の景色の密画があって、横に「沼津」と記してある。
「これで飲んだら、品が好すぎて頼りないような気がしますね」
「そうどすやろ」
彼女が笑うと、京都の女が愛らしいものの一つに数える茄子歯が見えた。二枚の門歯の根の方が鉄漿を染めたやうに黒く、右の犬歯の上に八重歯が一つ、上唇の裏へ引っかかるほどに尖っていて、それをあどけないと云う人もあろうが、公平に云えば決して美しい口もとではない。