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そばのはなのころ

蕎麦の花の頃

李 孝石

「文学案内」1937(昭和12)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,494 字 · 16 页

青空文庫

――市のあった、丁度こねえな晩だったが、宿の土間はむさ苦しゅうてなかなか寝つかれも出来ねえ、とうとう夜中に一人でぬけて川へ水を浴びに行っただ。蓬坪は今もその時分も変りはねえがどこもかしこも蕎麦の畑で、川べりは一面の白い花さ。川原の上で結構宜かっただに、月が明るすぎるだで着物を脱ぎに水車小屋へ這入ったさ。ふしぎなこともあればあるものじゃが、そこで図らずも成書房の娘に出会しただよ。村いっとうの縹緻よしで、評判の娘だっただ。

――運てやつだべ。

そうには違いねえ、と相槌に応じながら、話の先を惜しむかのように、しばらく煙管を吸い続けた。紫の煙が香ばしく夜気に溶け込んだ。

――儂を待ってたわけじゃねえが、外に待つ人があったわけでもねえ。娘は泣いてるだよ。うすうす気はついていただが、成書房はその時分くらしがえろうてほどほど弱ってるらしかっただ。一家のことだで娘にだって屈託のねえはずはねえ。ええとこがあればお嫁にもゆかすのだが、お嫁はてんでいやだときてる、……だが泣いてる女って格別きれいなものじゃ。はじめは驚きもした風だったが、滅入っている時にゃ気持もほぐれ易いもので、じき知合のように話し合っただ。