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そばのはなのころ

蕎麦の花の頃

李 孝石

「文学案内」1937(昭和12)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 7,494 字 · 16 页

青空文庫

忠州屋ではついのぼせてあねえなしまつになっただが、悪う思わんどくれよ。

――ど、どうして、かえって有りがてえと思っとるくらいだ。女なんて柄にもねえ、おふくろのことで今一杯なんだ。

許生員の物語でつい考え込んでいた矢先だったので、童伊の口調はいつになく沈んでいた。

――てては、と云われて、胸を裂かれる思いだったが、俺にはそのてておやがねえんだよ。身内のものとては、おふくろ一人っきりだ。

――亡くなっただか。

――始めからねえんだ。

――そねえな莫迦な。

二人の聴手がからからと仰山に笑うと、童伊はくそ真面目に抗弁しなければならなかった。

――恥かしゅうて云うめえと思ったが、本当なんだ。堤川の田舎で月足らずのててなし児を産みおとすと、おふくろは家を追い出されてしまったんだ、妙な話だが、だから今までてておやの顔を見たこともなければ、居処さえも知らずにいる。

峠の麓へさしかかったので、三人は驢馬を下りた。峠は嶮しく、口を開くのも臆劫で、話も途切れた。驢馬はすべりがちで、許生員は喘ぎ喘ぎ幾度も脚を歇めなければならなかった。そこを越える毎に、はっきりと老が感じられた。