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あざみ
薊
山本 周五郎
「小説新潮」新潮社、1959(昭和34)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 15,800 字 · 32 页
だが、おれにとっては大事なことだ。多数の人たちには些細なことであっても、或る一人にとっては生涯を賭けるような問題もある。妻がそこにいて、しかもそこにいないという実感。なにかを妻と話しているとき、いっしょに食事をするとき、寝屋で抱きあっているとき、自分の眼で見、話しあい、触れあっているのは妻の形骸だけで、本当の妻そのものは遠いところにいる。それがまざまざと感じられる苦痛は耐えがたいものだ。
「大事なことだ」と彼は妻に答えた、「おれにとっては大事なことなんだ」
「わたくしでかけなければなりません」
「ゆきを」と彼は云った、「岡野はなにを知っていたんだ、おまえはどんな秘密を彼に知られていたんだ」
「あなたはお聞きになった筈です」
「おれの聞いたのは茶会のことだけだ」
「それが全部ですわ」とゆきをは云った、「あの方はなにかを誤解して、根もない誹謗でわたくしを辱しめました、ですからはたし合をして頂きたいとお願いしたんです」
「あのつまらぬ陰口が、そんなにおまえを辱しめたというのか」
「あの方は軽薄な臆病者です」とゆきをは云った、「すてておけば、いつまでも卑しい陰口を云い廻るでしょう、それが広まってしまえば、あなたのお名にも瑕がつきますし、わたくしも生きてはいられなくなります」