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らん
蘭
山本 周五郎
「家の光」1948(昭和23)年8月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,247 字 · 21 页
一
一
秋の日はすでに落ちていた。
机にむかって筆を持ったまま、もの思いにふけっていた平三郎は、明り障子の蒼茫と暗くなっていくのに気づいて、筆をおきながら、しずかに立って窓を明けた。
北に面した庭には女ダケの荒れたやぶとまだ若木のスギ林がひろがっている。その樹下のもやのたちこめたような暗がりから、障子の明く音におどろいたのだろう、一羽のウズラが荒ら荒らしい羽音をたてて飛びたった。すると樹下の暗がりが、いっそう暗くなるように思えた。
「そうだ、会ってはっきり云おう」かれは低い声で、そうつぶやいた。「……もう、そうしても早すぎはしない」
その時の印象はずっと後になるまで、あざやかに覚えていた。たそがれの鬱々としたスギ林も、ひっそりと垂れていた女ダケの葉むらも、飛びたったウズラの荒ら荒らしい羽音も、そして、ひとりごとのようにつぶやいた自分の低い声も……
平三郎はその明くる日、須川生之助をおとずれた。生之助は、庭で蘭の手入れをしていた。さわやかな日光が、やわらげた黒土をぬくぬくと暖め、やや膚寒い風が、生垣のイバラの枯葉をふるわせていた。ここのほうが話しよい――平三郎はそう思った。