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くも

蜘蛛

甲賀 三郎

「文学時代」1930(昭和5)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,314 字 · 22 页

青空文庫

世人はむろんふたたび博士のことについて騒ぎだしたが、それもやはり永くつづかず、博士の死とともにこの奇妙な研究室と、そのなかに生棲する数百の蜘蛛についてはいまはかえりみる人もなくなった。

私は大学の動物学教室に助手をつとめて、節足動物につきすこし専門知識があるので、ときおり博士にまねかれて、研究について相談をうけたりした。辻川博士はまえにものべたとおり物理化学では世界的の学者だったが、動物学では素人なので、私のようなものでもいくぶん博士の研究をたすけることができたのだった。しかし、それもほんのはじめのあいだだけで、博士のようにすぐれた頭脳をもった人にはまたたくひまに私などが遠く及ばないぐらいの知識を獲得せられるのはなんでもないことだった。私は一二度博士がなぜ専門の物理化学を抛擲して、とつじょ蜘蛛の研究に従事せられたのかということをきいてみたが、博士は笑って答えられなかった。

遺族の人の困ったのは、この研究室の始末だった。というのは建物のこともそうであるが、さらにそのなかにある数百の蜘蛛の処置にいたってはまったく手のつけようがないので、それらの蜘蛛のなかには、人命をうばう毒蜘蛛もあるというので、彼らは恐れてちかづかず、処置はすこし専門知識のある私に一切ゆだねられることになった。