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すぎたはるのきおく

過ぎた春の記憶

小川 未明

「朱欒」1912(明治45)年1月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 5,536 字 · 11 页

青空文庫

」

と、坊さんは言った。

正一には、すべてがはっきりと分った。ちょうど桜の花の咲く頃の事であった。あの日の晩方、家の前に立っていると、あちらから、一人の旅僧が歩いて来た。その日は、朝のうちから、曇って、一日花曇りに日は暮れてしまうような穏かな日で、遠くでは、寺の鐘がゆるやかに鳴って聞えた。正一は、死んだ祖母のことなどを思い出していると、一人、草鞋を穿いて、びしゃびしゃと歩いて来た旅僧は、家の前を通り過る時に、ふと、自分の顔を見てにっこりと笑った。白髪の皺の寄った顔貌が、何んだか死んだお婆さんに遇った時のように懐しく思われた。正一は黙って、そう思いながら、不思議そうな顔付をして、旅僧の顔を仰いで見ると、

「大きくなった。また来るよ。」といって、その旅僧は行ってしまった。正一は、家に入って、そのことを母親に話すと、人違いだろう……お前に、そんなことをいう筈はない……あまり、可愛らしいから、そういったまでだろう……これから、知らぬ人が、いい児だから私と一しょにお出でなどといっても行ってはいけないといった。

今、自分の前に立っている坊さんは、その時の坊さんであった。