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ぎんさんじゅうまい
銀三十枚
国枝 史郎
「新青年」1926(大正15)年3月~5月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 35,863 字 · 73 页
私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく進んでいた。心臓の動悸、指頭の顫え、私は全然中風のようであった。視力が恐ろしく衰えてしまった。そうして強度の乱視となった。五分と物が見詰められなかった。絶えずパチパチと瞬きをした。瞼の裏が荒れてしまった。
誰も介抱してくれなかった。
お母様! お母様!
実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一呼吸だ。指先でいい。ちょっと背後から突いてくれ。死の深淵へ落ちることが出来る」
私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
その時自動車の音がした。
私は反射的に飛び上った。
病院の方角から自動車が、こっちへ向かって駛って来た。私の眼前を横切った。紳士と淑女とが乗っていた。淑女は私の妻であった。紳士は例の紳士ではなかった。もっと評判の悪い紳士であった。デパートメントの主人であった。外妾を持っているということで新聞へ書かれた紳士であった。