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かぎ

鍵

谷崎 潤一郎

「中央公論」中央公論社、1956(昭和31)年1月、5月~12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 102,182 字 · 200 页

青空文庫

(でも私には買い出しなんぞよりもっと大切な勤めがあり、夫を喜ばせるための忙しい仕事が控えているので、なかなか錦へ行く暇などはなかったのだ)行きつけの八百屋の店で筍と蚕豆ときぬさやを少々買う。筍を見たので思い出したが、今年はとうとう花の咲いたのも知らないうちに過してしまった。去年はたしか敏子と二人で、疏水のふちを銀閣寺から法然院の方へ花見をして歩いたことがあった。もうあの辺の花も残らず散ったことであろう。それにつけても今年は何という慌しい落ち着きのない春を送ったことか、あッという間にこの二た月三月が夢のように過ぎてしまった。………十一時に帰って来て書斎の花を活けかえる。今日はマダムが庭にあるのを届けてくれたミモザの花にする。夫はつい今しがた起き出したらしく、私が花を活けている時にようやく二階へ上って来た。朝は早起きの夫なのであるが、近頃はよくこんな風に寝坊をする。「今お起きになったの」と云うと、「今日は土曜だったのか」と云ってから、「明日は朝から出かけるんだろうね」と、まだ睡気の残っているような薄寝惚け声で云った。(その実寝惚けているのではない。大いに気に懸けているのである)私は肯定とも否定とも付かない返辞を、口の内でもぐもぐと云っただけであった。