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きりのなか
霧の中
豊島 与志雄
――「正夫の世界」――
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,920 字 · 40 页
以前は、山根さんが起きていて、姉とも妻ともつかない態度で何かと面倒をみてやったものだが、いろいろなことがあってからそれもなくなった。十二時になると彼女は寝てしまうし、正夫も既に眠っており、女中も寝てるのである。南さんは板塀をのりこして家にはいらなければならない。屋根のついてる門扉から少し離れたところ、勝手口に通ずる潜戸のわきに、高さ半メートルばかりの石の角材が植っている。もと塵芥箱をよせかけてあったものだが、今は石だけ残って車除けみたいになっている。南さんはそれに上り、板塀の頂にとびのり、そこにさし出てる百日紅の幹につかまり、内庭にはいり、竹の袖垣をまわり。玄関の戸を押開き、中にはいって戸締りをし、洗面所で顔と手を洗い、そしてまず茶の間に落着くのである。それらの行為は、ただ習慣と本能とに依るもので、如何に泥酔していても一分の狂いもなかった。
その夜も、そこまでは平素の通りだったが、用意されてる番茶を二三杯飲んでから、南さんは両腕を組んで考えこんだ。その顔は酒気も血色も引いて、冷たくしいんと蒼ざめている。眼は宙に据って動かない。それからふいに、皮肉な微笑を浮かべ、立上って押入から一枚の白紙を取り出し、それを餉台の上に拡げ、右の掌を平らに、白紙の上二三センチのところに差出して、じっと心意を凝らしてるようだっ