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きりのなか
霧の中
豊島 与志雄
――「正夫の世界」――
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,920 字 · 40 页
それから一時間ばかりして、南さんは、一人、或る酒の店の木の卓によりかかり、酒をのみながら、黙然と考えこんでいた。そこへ、中年の男が一人はいって来た。狭い家で、卓子は幾つもなく、南さんの前が空いてるばかりだった。南さんは顔をあげ、躊躇してる男に向って、愛想よく前方の席をすすめ、自分の小皿を引寄せ、やって来た女中に卓子を拭わせ、そして初対面の男に向って、馴々しく話しかけた。酒というやつはへんなもので、全くやめてしまおうと思う日と、やたらに飲んでやれと思う日とがあって、中途半端にいい加減に飲むという気は、決して起らないもんですなあ……、とそんなだしぬけな話なのである。すると、ジャケツの上に背広をひっかけてる相手の男は、日焼けした顔に善良そうな笑みを浮かべ、指の節々が太く爪先がささくれてる頑丈な手で、用心深く猪口を口元に運びながら、煙草はやめたが、酒はなかなかやめられず、今日も女房に内緒でちょっとやってるんで、と変に淋しいことを云い出した。煙草をやめる時はハッカを用いた。もう八年になる――八年だ。酒はどうも身体にわるいが、工事請負の仕事の関係上、飲むことが多く、いくら飲んでも酔わないのが悪い癖で、多少中毒のきみらしい……。