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きりのなか

霧の中

豊島 与志雄

――「正夫の世界」――

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,920 字 · 40 页

青空文庫

そしてしまいに、正夫を引きよせ、抱きしめて、涙を流していた。正夫の頭にかかる息には、酒の匂いがしていた。木原さんまで酔っ払っている、どうしてみな酔っ払うんだろう。お父さんはよく酔っ払っていた。そんなことが、正夫には淋しかった。そしてしつこく黙りこんでしまったのである……。

「まだ悲しいかい。」とチビは尋ねた。

「何が?」

「お父さんが死んだことさ。」

「死んだことは何でもないよ。ただ、お父さんがいないのは、淋しいなあ。」

「ほう、そんなもんかね。だが、あの時だって、君はちっとも泣かなかったじゃないか。」

「あんな時には泣かないさ。」

「じゃあどんな時に泣くんだい。」

「どんな時って……。」

「泣いたことなんかないんだろう。」

「あまりない……いやあるよ、あったよ。」

「いつだい。」

「ずっと前だが……。」

まだ小さい頃だった。正夫は母に連れられて、田舎の家に行ったのである。まん円い眼鏡をかけてるお祖父さんがいた。広い大きな屋敷で、池があり、竹籔があり、大木が立並んでいた。蜜柑の木がたくさんあった。いろいろな虫がいた。美しい蜘蛛が網を張っていた。蛞蝓や蚯蚓のようなぬるぬるしたものは、ぞっとするほど嫌だったが、蜥蜴の綺麗な色には長く見とれたし、蛇には妙にひきつけられた。