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かぜのたより

風の便り

太宰 治

1942(昭和17)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,044 字 · 66 页

青空文庫

渓流の音だけが物凄くて、――渓流の音と言えば、すぐにきょうのお昼の失敗を思い出し、首筋をちぢめます。実は、きょうのお昼に、また一つ失敗をしたのです。けさ私は、岩風呂でないほうの、洋式のモダン風呂のほうへ顔を洗いに行って、脱衣場の窓からひょいと、外を見るとすぐ鼻の先に宿屋の大きい土蔵があってその戸口が開け放されているので薄暗い土蔵の奥まで見えるのですが、土蔵の窓から桐の葉の青い影がはいっていて涼しそうでした。女が坐っているのです。奥に畳が二枚敷かれていて、簡単服を着た娘さんが、その上にちゃんと行儀よく坐って縫いものをしているのでした。悪くないな、と思いました。丸顔で、そんなに美人でもないようですが、でも、みどりの葉影を背中に受けてせっせと針仕事をしている孤独の姿には、処女の気品がありました。へんに気になって、朝ごはんの時、給仕に出て来た狐の女中に、あの娘さんは何ですか、とたずねてみました。狐の女中は、にこりともせず、あれは近所のお百姓の娘さんで毎日あそこで宿の浴衣や蒲団を繕っているのです、いいひとが出征したので此頃さびしそうですね、と感動の無い口調で言って、私の顔をまっすぐに見つめて、こんどは、あの人に眼をつけたのですか、と失敬な事まで口走るので、私も、むっとしました。