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ふうちそう

風知草

宮本 百合子

「文芸春秋」1946(昭和21)年9~11月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 44,107 字 · 88 页

青空文庫

その朝、重吉は上野へついて真直に、昔、自分とひろ子とがはじめて一緒に暮した小さな二階家があった町の方角へと歩いた。二階家は上野から来て坂の上にある国民学校の建物が目じるしであった。出迎えに会えなかったその朝、自分のうちへ、ひろ子のいるところへ帰るという重吉の感情の中心に、くっきり浮んだのが小さい昔の家の入口の情景であったということを、ひろ子は感動なしに聴けなかった。

たった二ヵ月足らずを二人で暮したその家から、十二年の間に一人でひろ子が移った家は、幾軒あったろう。移るたびに、ひろ子は細かく周囲の風景も描き、間どりを話し、スケッチの絵ハガキさえ重吉に送った。それらをみんな重吉はよく知っている筈であった。勿論、今、ひろ子が住んでいる弟の家も。町名、番地、隣組番号さえ重吉は知っている。その家に両親が暮していたとき、重吉も来たことさえある。だが、焼野原となった東京で、かえって来た重吉の心に、めじるしとして感じられたのは、昔の二階家であった。その家は、ひろ子の弟の家の北側が垣根一重のところまで焼けたとき、焼けて跡かた無くなっていた。

自由になって、まだ十日余りしかたたない重吉のとりなし万端に、ひろ子のこころを動かしてやまないものがあった。