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なるとひちょう

鳴門秘帖

吉川 英治

03 木曾の巻

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 56,957 字 · 114 页

青空文庫

ぬらぬらと光って、生きもののような岩の肌からしたたる雫が、冬は氷柱となって剣の天井となり、夏はポタポタと乳のごとく清水を降らすので、いつか世阿弥が黒木柱を組んで、その上へ、柏葉樹の葉をたくさんに葺いておいたが、それも今では、真ッ黒に朽ちて、時折、氷より冷やかな白玉を襟すじに落してくる。

「ああ、夢だった……」

やがて世阿弥はこういって、残り惜しそうな眼をあげた。

夢ほど楽しいものはない。夢はこの山牢を解放して、剣山から江戸までもさまよわせてくれる。今の世阿弥と現実の世の中との交渉は、ただ時折にみる夢だけに繋がれている。

やがて、かれは薄暗い岩窟から外へ這いだした。

そこには、何ものも萌え立たせずにはおかない春の太陽が、らんらんと群峰の肩からのぼりかけていた。鵯、橿鳥、駒鳥、岩乙鳥、さまざまな鳥がその恵みを礼讃し、あたりの山草や植物も、かがやかしい芽や花に力をみせて、世阿弥の瞳はクラクラとしてしまった。

「あ……」と、かれは、痛いように、両手を顔に当てながら、洞窟の前からトボトボと低地の水際へ下りて行った。十一年もの間、岩窟に起き伏ししていたせいもあろうが、その姿は、この世の人とは思われない。