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ケーからキューまで
KからQまで
寺田 寅彦
「文芸評論」1933(昭和8)年10月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 3,869 字 · 8 页
風呂屋の主人は意外な機会に変った英雄主義を発揮して見せた訳である。尤も同時に若干の湯銭を獲得したことも事実ではあるが。
九
今朝五時頃に眼が覚めて床の上でうとうとしているとき妙なことを思い出した。子供の時分に姉の家に庫次という眇目の年取った下男が居た。それがある時台所で出入りの魚屋と世間話をしながら、刺身包丁を取り上げて魚屋の盤台の鰹の片身から幅二分くらい長さ一尺近い細長い肉片を巧みにそぎ取った。そうしてその一端を指でつまんで高く空中に吊り下げた真下へ仰向いた自身の口をもって行って、見る間にぺろぺろと喰ってしまって、そうしてさもうまそうに舌鼓をつづけ打った。その時の庫次爺の顔を四十余年後の今朝ありありと思い浮べたのである。どうしてそんなことを想い出したかが分からない。その直前にどんなことを考えていたかと思って聊か覚束ない寝覚めの記憶を逆に追跡したが、どうもその前の連鎖が見付からない。しかし、その少し前にこの夏泊った沓掛の温泉宿の池に居る家鴨が大きな芋虫を丸呑みにしたことを想い出していた。それ以外にはどうしてもそれらしい聯想の鎖も見付からないのである。