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おさん

おさん

山本 周五郎

「オール読物」文藝春秋新社、1961(昭和36)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 33,128 字 · 66 页

青空文庫

それは陶酔ではなく、むしろそのたびになにかを失ってゆくような感じだった。そうしてやがて、その譫妄状態の中で、おさんは男の名を呼ぶようになった。初めてそれを聞いたときの気持はひどいものだった。失神しているようなありさまの中で、一と言はっきりと人の名を呼んだのだ。おれはいきなり胸へ錐でも突込まれたように、ほかに男がいるなと思った。いまでもあのときの気持は忘れることができない、ほかの場合ならともかく、そういう状態のさなかなのだ。自制をなくしているから、ふだん心に隠していたことが口に出た、そう思うのがあたりまえだろう。おれはおさんに男ができたと思った。ほかのこまかい感情をとりあげるまでもない。おれはおさんの肩を掴んで揺り起こし、相手はどこの誰だと問い詰めた。おさんがはっきり意識をとり戻すまでにはいつも暇どる、おれはかっとなっていたから、引きずり起こして頬を打った。ごめんなさい、堪忍して、とおさんはまだはっきりしないままあやまった。おれはなお二つ三つ平手打ちをくれ、おさんは怯えたようになって眼をさました。どうしたの、なにか気に障るようなことをしたの、とおさんが訊き返した。