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はたしじょう
はたし状
山本 周五郎
「週刊朝日 新年増刊」朝日新聞社、1951(昭和26)年1月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,525 字 · 39 页
「――これだった、これだったんだ」
彼はなんども独りで呟いた。
「――早くこうすればよかったんだ」
彼は自分では知らずに微笑さえうかべた。
下城したときはもうすっかり昏れていた。かなり強い北風で、道から砂埃が舞いあがり、内濠の水は波立って、頻りに石垣を打つ音が聞えた。……第二は濠端でふと足を停め、ちゃぷちゃぷというその水の音に聞きいった。濠の中は深くて暗かった。水は鈍い鋼色に光って、石垣の根を打っては返り、打っては返り、休みなしに揺れ立っていた。……ぞっとするほど冷たそうなその水の色や、なにかを嘆き、訴えるかのようなその音には記憶があった。江戸で、隅田川の岸で、彼は同じような時刻に、独りでじっと川波を眺め、岸を洗う水の音を聞いた。向島の堤の下で……本所の百本杭で……。
歩きだしたとき第二は、哀しいような沈んだ気分にとらわれていた。江戸邸の中にある足軽長屋、暗くて不潔で湿っぽい住居と、そこの人たちの無気力な希望のない生活、絶えず病気や思わぬ災難に怯えながら、一生じっと頭を垂れて、与えられた僅かな扶持で辛うじて生きている姿。……そういうもの哀しい回想が次から次へと思いうかび、やがて自分が決闘で斃れたあとの父や母の悲嘆の声までが聞えるように感じられた。