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いまどしんじゅう

今戸心中

広津 柳浪

「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页

青空文庫

と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の前はわけて走るようにして通ッた男がある。

お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語いた。

「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」

三ツばかり先の名代部屋で唾壺の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸をした。

途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。

「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着いていた。

平田は驚くほど蒼白た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。

「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。

「兄さん」と、吉里は背後から西宮の肩を抱いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」

西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。

「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」

お梅が幾たび声をかけても、平田はなお見返らないで、廊下の突当りの角を表梯子の方へ曲ろうとした時、「どこへおいでなさるの。