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いまどしんじゅう
今戸心中
広津 柳浪
「文芸倶楽部」1896(明治29)年7月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 36,688 字 · 74 页
「いいえ、何にも言ッてらッしゃりはしませんかッたよ。何だか変ですことね。どうかなすッたんですか」
「どうもしやアしない。なに、どうするものか」
「じゃア、あちらへ参りましょうよ」
「あちらへ」
「去り跡になりましたから、花魁のお座敷へいらッしゃいよ」
「あ、そうかい。はははははは。そいつア剛気だ」
善吉はつと立ッて威勢よく廊下へ出た。
「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」
善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。
「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッたよ。あんなに言うのに紙入れを忘れて行ッたよ。煙草入れもだ。しようがないじゃアないか」
お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れとを取り上げ、盆を片手に持ッて廊下へ出た。善吉はすでに廊下に見えず、かなたの吉里の室の障子が明け放してあった。
「早くお臥みなさいまし。お寒うございますよ」と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の間に立ッたまま上の間へ進みにくそうに見えた善吉へ言った。
上の間の唐紙は明放しにして、半ば押し除けられた屏風の中には、吉里があちらを向いて寝ているのが見える、風を引きはせぬかと気遣われるほど意気地のない布団の被けざまをして。