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えせものがたり
似而非物語
山本 周五郎
「週刊朝日涼風読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 31,817 字 · 64 页
杢助はそっちを見ようともしなかった。
そのとき先客の老人は湯に浸っていた。娘たちが去ると、杢助もすぐ湯に入ったが、老人の方には眼も向けず、むろん挨拶もしなかった。老人の方が少し脇へ身をずらせた。杢助は平然として、まるでそこにいるのは自分ひとりであるかのように、顎のところまで湯に浸り、手拭で頸のまわりを擦りながら、おもむろにあたりを眺めやって、独り言を云った。
「あの沢はくん(崩れ)だだな、きっと木を伐りすぎたにちげえねえ」
狭い谷間だから展望はきかなかった。白山谷も見えない、手取川の瀬の音も、眼の前にある谿流の音が高いので聞えなかった。谿流に沿って道があり、それはこの上の杉谷を経て、白山の登山道へつながるのであった。向うは傾斜の急な山腹で、杉林がずっと上のほうまで繁っているが、ひとところ大きく崩れて、赭土の剥きだしになっている処があった。
「その方は牛窪の者か」
先客の老人が云った。呼びかけずにはいられなかったらしい。杢助は「そうだよ」と答えたまま、やはり谷の向うを眺めていた。老人は黒くて濃い眉をしていた。髪毛はもう灰色であるが、眉は黒く、とびぬけて濃かった。