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えせものがたり
似而非物語
山本 周五郎
「週刊朝日涼風読物号」朝日新聞出版、1952(昭和27)年6月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 31,817 字 · 64 页
杢助はだらけた調子で云った。
「その人も云ってただ、おら世の中に飽きはてた、人間どもの俗悪さにあいそが尽きた、おら名も要らねえし金も要らねえ、出世もしたかあねえ、こうやって名もねえ人間になって、無一物で、誰にも知れねえように巷を放浪して、そうしてどこかでおっ死ぬが望みだってよ」
「それは殊勝なことを聞くものだ」
「その人はそう云ってただよ」
杢助は無関心に云った。
「そう云ってただが、宿の表には自分の名を書いた大きな看板を出して置いただ、天下の豪傑荒川熊蔵の宿所ってよ」
「ほう、荒川熊蔵とな」
「それから酔っぱらうといつも喚きたてるだ、うぬらこの虫けらども、天下の豪傑を知らねえっつうか、荒川熊蔵を知らねえだか、この人間の屑の下司野郎めら、おら荒川熊蔵だぞう、ってよ」
こう云って欠伸をした。
「それでその人のことを知らねえ者はなかったし、みんな怖ろしがって震えてただよ、ほんにみんな震えていたっけだよ」
飯篠老人は不愉快そうな顔をした。
「そんな人間とわしを同じに思ってもらっては困る、わしはそんな人間ではない」
老人は云った。
「痩せたりといえども飯篠長威斎、山城守直家はそんな人間ではない、わしは慥かに名利を捨てて来たし、現にこのとおり山中に隠棲し、その方などと閑談を楽しんでおる、誰が見ても無慾恬淡な老農夫ではないか」