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なにもの
何者
江戸川 乱歩
「時事新報 夕刊」時事新報社、1929(昭和4)年11月28日~12月29日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 38,449 字 · 77 页
「成程、足跡の重なっていなかった点は、如何にも不自然ですね。或は御説の通り故意にそうしたのかも知れん。だが、それにどういう意味が含まれているのですかね」
波多野警部が愚問を発した。弘一君はもどかし相に、
「これが分らないなんて。あなたは救い難い心理的錯覚に陥っていらっしゃるのです。つまりね、歩幅の狭い方が来た跡、広い方が急いで逃げた跡という考、随って足跡は井戸に発し井戸に終ったという頑固な迷信です」
「オ、では君は、あの足跡は井戸から井戸へではなくて、反対に書斎から書斎へ帰った跡だと云うのですか」
「そうです。僕は最初からそう思っていたのです」
「イヤ、いけない」警部はやっきとなって「一応は尤もだが、君の説にも非常な欠陥がある。それ程用意周到な犯人なれば、少しのことで、なぜ向側の道路まで歩かなんだか。中途で足跡が消えたんでは、折角のトリックが何にもならない。それ程の犯人が、どうしてそんな馬鹿馬鹿しい手抜かりをやったか。君はこれを何と解釈しますね」
「それはね、ごくつまらない理由なんです」
弘一君はスラスラと答える。「あの晩は非常に暗い闇夜だったからです」
「闇夜? なにも闇夜だからって、井戸まで歩けたものが、それから道路までホンの僅かの距離を歩けなかったという理窟はありますまい」