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きずあとのはいけい

傷痕の背景

豊島 与志雄

「中央公論」1929(昭和4)年9月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 19,022 字 · 38 页

青空文庫

西瓜を割って、中身で喉をうるおして、その皮を頭にかぶって、大河につかった。そして生命を助かったそうだが……。これなんか、恐らく東京中で、一番賢明な奴だったろう。」

「初めは、夢中で抱え出したんだな。とかく、智恵は後から湧くって謎か。」

「後から智恵が湧くどころか、終始一貰、あの時は誰も夢中だった。君なんか、外は歩けなかった組だね。」

言葉を向けられた、背の高い、大陸的な風采の男は、昂然と笑った。

「ばかな、大手を振って出歩いたさ。そして警戒線にぶつかると、アイウエオやいろははおろか、逆に、すせもひゑしみめゆきさあてえ……。どうだ、云えるか。」

「す……せ……も……。ははは、ばかだなあ。」

「あの時だけは、有吉、君たちの軍服も、感謝の光栄に浴したわけだね。」

「なあに、ただ、辻々に立って……街路樹みたいなものさ。」

有吉は事もなく云って、微笑していた。

「街路樹よりも、もっと本物らしいのがあった……。」

先程から、有吉の軍服と旭日章とをぼんやり眺めていた杉本が、ふいに口を開いたのである。皆の視線がその方を向いた。

――九月三日の夜……といえば、戒厳令が布かれた直後のことである。