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めいじんじごく

名人地獄

国枝 史郎

「サンデー毎日」1925(大正14)年7月5日~10月25日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 149,286 字 · 301 页

青空文庫

「さあ確り頼むぞよ。パカパカパカと景気よく、ご苦労ながら歩いてくれ。蹄の音に合わせてこそ、追分の値打ちが出るのだからな。乗せるお客も荷もねえが、あると思って歩いてくれ! ハイ、ハイ、ハイ」と声を掛け、自分は手綱を肩に掛け、土間を通って街道へ出た。

茫々と青い月の光、一路うねうねとかよっているのは、本街道の中仙道で、真っ直ぐに行けば江戸である。次の宿は沓掛宿で、わずか里程は一里三町、それをたどれば軽井沢、軽井沢まで二里八町、碓井峠の険しい道を、無事に越えれば阪本駅路、五里六町の里程であった。

西は追分、東は関所

関所越えれば、旅の空

咽ぶがような歌声が、月の光を水と見て、水の底から哀々と空に向かって澄み通る。甚三の流す追分であった。パカパカパカと蹄の音が街道を東へ通って行った。

「おおまた追分が聞こえるな」

いうと一緒に肩の鼓を膝の上へトンと置いた。「まるで競争でもするように、俺が鼓を打ちさえすれば、あの追分が聞こえて来る」

本陣油屋の下座敷、裏庭に向かった二十畳の部屋に、久しいまえから逗留している、江戸の二人の侍のうち、一人がこういうと微笑した。名は観世銀之丞、二十一歳の若盛りで、柔弱者と思われるほど、華奢な美しい男振りであった。