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ゆうもやのなか

夕靄の中

山本 周五郎

「キング」大日本雄辯會講談社、1952(昭和27)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,522 字 · 19 页

青空文庫

それから阿迦桶の水を、墓標の前の(死んだ仏の使っていたらしい)茶碗に注いだ。これらのことを、彼は黙って、放心したように、脇から眺めていた。

「すっかり覚えが悪くなってしまいまして」老女は会釈をして云う、「失礼でございますが、初めてお眼にかかるのでございましょうか」

「ええ、……そうです、たぶん」

「わたくしおいねの母でございます、このたびはお店の皆さまに、いろいろと御厄介をおかけ致しまして……」

彼女はくどくど礼を云う。あの男はさっきの場所にはいない、だがあの眠そうな眼は、こっちを見まもっている。飽くことなく、じっと、どこかついその辺から。……彼はうなだれて、無気力に溜息をつき、ふところの手をだらっと下げる。

このあいだに、老女の声は少しずつ変ってきた。それがふと途切れて、なにかを探るような眩しそうな眼で、彼を見あげた。

「あのう、こんなことをお訊ねしては、失礼かもしれませんが、もしや貴方は、……あの繁二郎さんと仰しゃるのではございませんか」

彼はどきりとする。すぐには返辞ができない。ええと口ごもるのを、老女は自分の思いどおりに受け取った。

「お手代の繁二郎さまでございますのね」