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よあけまえ

夜明け前

島崎 藤村

01 第一部上

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 205,629 字 · 408 页

青空文庫

「しかし、御苦労、御苦労。」

と吉左衛門は繰りかえした。おまんはそれを聞きとがめて、

「あなたはだれに言っていらっしゃるの。」

「おれか。だれも御苦労とも言ってくれるものがないから、おれは自分で自分に言ってるところさ。」

おまんは苦笑いした。吉左衛門は言葉をついで、

「でも、世の中は妙なものじゃないか。名古屋の殿様のために、お勝手向きのお世話でもしてあげれば、苗字帯刀御免ということになる。三十年この街道の世話をしても、だれも御苦労とも言い手がない。このおれにとっては、目に見えない街道の世話の方がどれほど骨が折れたか知れないがなあ。」

そこまで行くと、それから先には言葉がなかった。

馬籠の駅長としての吉左衛門は、これまでにどれほどの人を送ったり迎えたりしたか知れない。彼も殺風景な仕事にあくせくとして来たが、すこしは風雅の道を心得ていた。この街道を通るほどのものは、どんな人でも彼の目には旅人であった。

遠からず来る半蔵の結婚の日のことは、すでにしばしば吉左衛門夫婦の話に上るころであった。隣宿妻籠の本陣、青山寿平次の妹、お民という娘が半蔵の未来の妻に選ばれた。