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よあけまえ

夜明け前

島崎 藤村

01 第一部上

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 205,629 字 · 408 页

青空文庫

「熊や。」

とその時、おまんはそばへ寄って来る黒毛の猫の名を呼んだ。熊は本陣に飼われていて、だれからもかわいがられるが、ただ年老いた隠居からは憎まれていた。隠居が熊を憎むのは、みんなの愛がこの小さな動物にそそがれるためだともいう。どうかすると隠居は、おまんや下女たちの見ていないところで、人知れずこの黒猫に拳固を見舞うことがある。おまんはお民の髪を結いながらそんな話までして、

「吾家のおばあさんも、あれだけ年をとったかと思いますよ。」

とも言い添えた。

やがて本陣の若い「御新造」に似合わしい髪のかたちができ上がった。儀式ばった晴れの装いはとれて、さっぱりとした蒔絵の櫛なぞがそれに代わった。林檎のように紅くて、そして生き生きとしたお民の頬は、まるで別の人のように鏡のなかに映った。

「髪はできました。これから部屋の案内です。」

というおまんのあとについて、間もなくお民は家の内部をすみずみまでも見て回った。生家を見慣れた目で、この街道に生えたような家を見ると、お民にはいろいろな似よりを見いだすことも多かった。奥の間、仲の間、次の間、寛ぎの間というふうに、部屋部屋に名のつけてあることも似ていた。