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ゆめはよびかわす
夢は呼び交す
蒲原 有明
――黙子覚書――
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 104,126 字 · 210 页
そのおりのことを、彼はいつまでも忘れないでいる。かほどまでに親身になってかばわれたのは、彼にはかつてなかったためしである。
父とは同国の出身で、夙くから病気療養に対するその効用を認めて海水温浴を主唱し、少しは世に知られていた医家があった。西岡である。西岡は不幸にして志も達せずに歿したが生前の主張が一つの果実を結んで、それが未亡人の手に遺されていた。芝浦の塩湯と呼ばれて、その後も幾多の変遷を経て、ずっとその遺業はつづけられた、塩湯の方はおいおい附帯のように成っていったが、芝浦館といえば東京では知らぬ人はまずなかったといって好かろう。
西岡未亡人の家にはそんなわけで、西岡医院開設当時に贈られた蒼海翁のあの雄勁な筆力を見せた大字の扁額を持ち伝えていた。鶴見が幼い観察から、急傾斜になっている海面にひっくり返りもせずに小蒸汽船の動いてゆくのを見たというのは、その塩湯でのことであった。木挽町の塩湯はいわばその分身のようなものである。越後長岡の出で、どういう因縁のあってのことか、左団次贔屓の婆さんが頭だって切り廻していた。場所柄でもあり、また婆さんの趣味も加わって、築地辺に住んでいる名うての俳優の家族などにもその宣伝がきいたと見えて、その連中が常連として入浴に出掛けて来る。