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ちぎりきぬ

契りきぬ

山本 周五郎

「ロマンス」ロマンス社、1949(昭和24)年10月~11月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 32,757 字 · 66 页

青空文庫

こんなことは初めてである。辞退しようと思ったが、もう別れるのだと気づき、静かに膝をすすめてそれを受けた。

「よく降る、――しずかな雨だ、……これですっかり秋らしくなるだろう」

彼は眼をつむり、戸外の雨を聞くようにいっときしんとした。そうして、眼をつむったまま、囁くように「なつ――」と呼び、片方の手をこちらへさし伸ばした。おなつはもうひと膝すすんで、その手へ盃を返した。すると、その彼は盃ごとおなつの手を握り、自分も身を起すようにしてひき寄せた。

おなつは眼がくらむように思った。手を握られ、つよい力でひき寄せられたとき、相手をつきのけ、叫ぼうとした。本当につきのけ、叫んだかもしれない、だが逆になんにもしなかったかもわからない、一瞬に全身の力がぬけ、感覚が自分のものでなくなった。くらくらと眼が見えなくなり耳の中できみのわるいほど血の騒ぐ音がした。――ふしぎなことには、仏間の襖が少しあいていて、そこから仄かな光がもれるのを覚えているし、また伊代が起きて来はしまいかと、気がかりだったことも記憶にある。……しかしそのほかのことはみんな夢中だった。きらきらと多彩な光の舞う、深い谷底へ、頭のほうからうしろざまに落ちるような、混沌とした異様な感覚のなかで、おなつは殆ど気を喪っていた。