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ほ

帆

宮本 百合子

「文芸春秋」1927(昭和2)年10月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 11,973 字 · 25 页

青空文庫

藍子はそれを下げて、窓際へ行った。

「――。千束の人ですか」

「ええ、そうです」

尾世川は、やっぱり照れたような具合で熱心に云った。

「どうも困っちゃったんです。妙な嫌疑なんかかけやがるから」

「どうしたんです、本当に御存じないんですか」

「本当ですとも。――今の男の妻君の妹分に当る女ってのが、私もちょっと知ってるには知ってるんですが、二日ばかり前にいなくなったんだそうです。鏡台の中とかに私の所書があったからって来たんですが、……私はそんなことちっとも知りゃしないんですよ」

「ひどく不満そうですね」

藍子が、可愛い眼に悪戯らしい色を浮べて笑った。尾世川も思わず釣られて破顔したが、

「いや、決してそう云う訳じゃないんです」

と、彼は持前の、唾のたまり易い口を突き出すようにして弁解した。

「五月蠅いですからね」

藍子は悪意のない皮肉で心持大きい口を歪め、美しい笑いを洩した。五月蠅いのが嫌いな尾世川であろうか! 彼が生れた日の星座がそうだとでもいうのか、五月蠅いことのためばかりに、彼は弟子の藍子に頭が上らないほど身をつめ、しかも欣々然と我が世の重荷を背負っているではないか。