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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

そのものに対して、秋子が全身を挙げて奉仕してることが、彼にとっては、秋子をいつまでも掌に握りしめていたいだけに、小憎らしいほど秋子が可愛いいだけに、一層気持を脅かされる種となった。

彼女にとっては、俺のことなんかはもうどうでもいいのだ!

一寸した用事を頼んでも、彼女はなかなか立ち上ろうとしなかった。特別に彼女に云いつけた仕事も、長く放ったらかされてることが多かった。その上彼女は、彼を反対に使おうとしていた。背が低いので、高い所にある物を取る時にはよく彼を呼んだ。

「余り手を挙げるといけないんですって。」

そんなに胎の児が大事なら、姙娠を彼にうち明けるのだって、もっとしみじみとした心でなぜしなかったのか。喧嘩のついでなんかは、余り人を踏みつけにした仕業だった。彼はそれを責めてみた。

「だって、まだどうだか自分でもよくは分らなかったんですもの。あなたが余り呑気だから、本当にそうだときまってから、不意に喫驚さしてあげるつもりもあったんですわ。それが、あの時はあなたが余りひどいことをなさるから、つい調子で云ってしまったのです。」

人を馬鹿にしたように、小さい方の右の眼だけで笑っている、その様子が、順造は急に堪らなく可愛くなった。