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まぼろしのかなた

幻の彼方

豊島 与志雄

「中央公論」1922(大正11)年4月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 41,763 字 · 84 页

青空文庫

「お目出度うございます。お坊ちゃまでございますよ。」

彼は声のする方へ頭を下げた。それを挙げようとする時、すぐ前の秋子の顔とぶつかった。口許に力無い薄ら笑いを湛えて、眼は涙ぐんでいた。

「ごらんなさいませ。」と産婆は云い続けていた。「まるまる肥った、綺麗なお児様ですこと。お手柄でございました。」

彼は背筋がぞっとして、啜り泣きがこみ上げてきた。それを押えてるまに、眼の中が熱くなった。

赤いメリンスの布団の襟から、円めた真綿を帽子に被った小さな真赤な顔が、少しばかり見えていた。

「ほんとに奥様はお強うございますよ。声一つお立てなさらないんですもの。あんなに激しい陣痛を、よくお堪えなさいました。でも、陣痛がおっつけおっつけ激しくきましたので、時間が長くかからないでようございました。よく中途で陣痛が止ってしまうような方がありますが、それには困ってしまいますよ。奥様のはそれは激しくて、それをまたじっと我慢していらっしゃるので、代りに私共がうんうん唸ってあげましたよ。」

産婆は助手を顧みて、顔を輝かしていた。

順造は秋子の方を覗き込んだ。総髪に取上げた先を麻で結え、四五本のほつれ毛が額にこびりついていた。