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よく

慾

豊島 与志雄

「改造」1932(昭和7)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 16,324 字 · 33 页

青空文庫

命拾いをした息子、それだけが胸一杯になっているのだろう。僕の顔をやさしく見守って云うのだ。

「ほんとにねえ、お前さんに不自由はさせたくないんだけど……。」

その言葉だけで僕はもう沢山だ。不自由……と云えばやはり不自由には違いない。だが母だって、食べさせれば大黒屋の煮物をうまそうに食べた。涙を見せるのは恥だ。そのダイヤの指輪が質屋で百五十円になったのは、拾い物をしたようなものだった。それでも、僕の懐中は淋しい。懐手をして、百五十円の紙幣を押えて、街頭の一隅に佇んでいると、往き来の人々の顔が、どれもみな金銭を目指しているように見える。蜘蛛の巣のように四方八方に交錯している彼等の目的の方向は、みな金銭を終端に持ってるように思われる。金銭がなかったら、人々はこうも多忙ではあるまい。彼等に適当な衣食住と性欲機関とを与えれば、誰も金銭などを見向くものはあるまい。少なくとも僕は見向かない。あの時でさえ、「不自由な」僕でさえ、百円の金を喜久本の帳場へ平気で投げ出した。少しも惜しい気はしなかった。単に幾枚かの紙片の位置を変えただけだ。惜しいのは、具体的な物だ。指輪だ、時計だ、衣類だ、酒だ、御馳走だ、彼女の肉体だ。