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あるおんなのしゅき

或る女の手記

豊島 与志雄

「婦人倶楽部」1920(大正9)年12月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 18,447 字 · 37 页

青空文庫

――私はそれらを皆承知した。

所が、私はその約束通りに行わなかった、行えなかった。私は彼に対して非常な恐怖を感じたのであるけれど、恐怖の合間には、また一種の憐憫の情をも感じた。そして彼に脅かされる時には、どんなことがあってもお寺の前を通らなかった。けれど彼を憐れむ時には、俄に姿を見せないのも可哀想だと思って、やはりお寺の前を通った。その二つのことが間歇的に私に起ってきた。ああ年若な女の容易い慴えよ、また傲りよ! 然し今から考えると、それ以外に或る大きな蠱惑が私を囚えていたように思われる。それは蝿を招く蜘蛛の糸の惑わしだ。私は彼を恐れ或は彼を憐れみながらも、心の奥では彼に魅惑されていたのであろう。

その上、別に変ったことも起らなかった。

私は往きに時々お寺の前を通って、御門の中に立ってる彼と逢った。帰りにもたまに、お寺の前で彼と出逢うことがあった。

そのうちにまた学期試験となり、冬休みとなった。然しそのお正月は、私にとっては陰欝なものであった。絶えず頭にはぼんやりした霧がかけていた。死んだ人を偲ぶようにして、彼のことを思い出したりした。兄さんから私はすっかり神経衰弱だときめられた。