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にほんふどうき

日本婦道記

山本 周五郎

松の花

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,743 字 · 22 页

青空文庫

いま机の上にひろげている稿本「松の花」は、藩譜のなかに編まれる烈女節婦の伝記と、紀州家中、古今のほまれ高き女性たちを録したものである。藤右衛門はつねづね、泰平の世には、婦道をただしくすることが、風俗を高めるこんぽんであると信じていた。それでその校閲にはもっとも念をいれ、一字一句のすえまで吟味を加えているのだが、この四五日はなんとなくつかれ易く、ともすれば惘然と筆をやすめていることが多くなった。――身にいとまのあることがかえって悪いのだろう、馴れてくればこんなことも無くなるにちがいない。藤右衛門は自分ではそう考えていた。けれどもその原因はじつはもっとほかにあった。妻のやす女がいま重態なのである。去年の夏からのわずらいがしだいに増悪するばかりで、すでに医師もみはなしていたし当人もすっかりあきらめていた、ことにゆうべはほとんど臨終かと思われ、わかれの言葉もとりかわしたほどである。病気が癌という不治のものだったので、はやくからたがいに覚悟ができていた。かなしさもつらさもいまさらのものではない。ただ臨終が平安であれと祈るほかには、藤右衛門の心はしらじらとした空虚しか残っていなかった。