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そうしゅん

早春

豊島 与志雄

「苦楽」1947(昭和22)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,457 字 · 20 页

青空文庫

北川さんはまだ独身で、家庭には、年とった母と若い妹がいた。病人というのは妹のことで、その姿をおれが見たのは事件が起ってからのことだ。

おれはただ生魚を時々持っていった。おれは魚屋じゃない。戦災で親たちが田舎へ引き込んだあと、一人東京に残って、まあ謂わば植木屋の手伝いみたいなことをしていた。忙しい仕事もめったにないし、あちこちに手蔓があるものだから、物品の仲立ちも少しはやった。大人でなくて小僧っ子なもんだから、却って便利がられた。けちな仕事だが、金は相当にもうかった。

ところで北川さん……はっきり言えば北川辰治は、ちょっと文学者めいたところのある人だが、それでいて少しも気むずかしくはなく、至極のんびりしていた。どうして中学校の先生なんかしているのか分らなかったが、外になにもすることがなかったからだろう。貧乏なのか金持ちなのか見当がつかなかった。十円札一枚もないこともあれば、新らしい百円札をたくさん持ってることもあった。

おれが識り合ったのは一月の半ばで、それからずっと寒い日が続いた。梅の花の咲くのが後れた。そして三月になった或る日のこと、へんなことが起った。