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そうしゅん

早春

豊島 与志雄

「苦楽」1947(昭和22)年5月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,457 字 · 20 页

青空文庫

――その遠い低いところ、草原のはてに、一つぽつりと、黒いものが見えた。何だろうかと、娘はそれを見つめた。黒い一点は、動いていた。だんだんこちらに近づいてくるらしい。たいへんな速さで、こちらへやってくるらしい。次第に大きくなった。馬だった。人が乗っていた。馬も人も黒く見えた。それが、たいへんな勢いで、たいへんな速さで、草原を駆け登ってきた。ますます近づいてくる。ますます大きくなる。下方の谷間を流るる川や、そのあたりの畑地や、杉の木立など、パノラマのような美しい背景のなかに、人馬が大きく浮きだして、それが草原をいっさんに駆け登ってくる。五百メートル、三百メートル……あ、もうすぐ目近に来た。怪物のように大きくなった。それがまっ黒で、機関車のように突進して来た。ぶっつかった……と思ったとたんに、娘は地面に倒れたが、馬はまるで影か霧のように、すーっと通りすぎていった。

こんな話、おれには何のことかよく分らなかった。お伽話でもないし、お化け話でもないし、いささかばからしくも思えた。北川さんもその当座、おれの批評など求めはしなかった。――それが、実は、病人の頭から醸し出されたものだったんだ。