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あらの

曠野

堀 辰雄

「改造」1941(昭和16)年12月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 10,315 字 · 21 页

青空文庫

すると、築土のくずれが、一ところ、童でもふみあけたのか、人の通れるほどになっていた。男は何の気なしに其処からはいって見ると、もとは何本もあった大きな松の木は大てい伐り倒されて、いまは草ばかりが生い茂っていた。古池のまわりには、一めんに山吹が咲きみだれてい、そのずっと向うの半ば傾いた西の対の上にちょうど夕月のかかっているのが、男にははじめてそれと認められた。その対の屋の方は真っ暗で、人気はないらしかった。それでも男はそちらに向って女の名を呼んで見た。勿論、なんの返事もなかった。そうなると男は女恋しさをいよいよ切に感じ出し、袖にかかる蜘の網を払いながら、山吹の茂みのなかを掻き分けていった。男はもう一度空しく女の名を呼んだ。男はそのとき思いがけず反対の側にある対の屋からかすかな灯の洩れているのを見つけた。男は胸を刺されるような思いをしながら、そちらの方へさらに草を掻き分けて往って、最後に女の名を呼んだ。返事のないのは前と変りはなかった。男は草の中から其処には一人の尼かなんぞいるらしいけはいを確かめると、頭を垂れた儘、もと来た道をあとへ引っ返した。もう昔の女には逢われないのだと詮め切ると、それまで男の胸を苦しいほど充たしていた女恋しさは、突然、いい知れず昔なつかしいような、殆ど快いもの思いに変りだした。