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しいのき

椎の木

豊島 与志雄

「経済往来」1934(昭和9)年2月

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 25,870 字 · 52 页

青空文庫

それと共に、もし小鈴との愛がなかったら、川村さんは竹山の事件をどう感ずるだろうかと、考えてみるのだった。やはり川村さんも、自分の現状を超越した心境にはなり得ないのであろう。川村さんと小鈴との関係を新たに見直さなければならないと、良一は思うのだった。

ただ、良一が安心したことには、皆でこれから椎の木に別れを告げに行こうと、川村さんは云いだした。竹山茂樹の憎しみの幻影がこわれると共に、原野権太郎の幻影もこわれてしまったらしい。川村さんはしみじみと云うのだった。

「椎の木などは、実はどうでもいいのだ。竹山があんまりこだわるものだから、僕もつい変な気になったが、自然の美は、個人で所有すべきものじゃないだろう。」

川村さんも小鈴も良一も、自動車の中では無言だった。椎の木の下へ、木戸をあけてはいっていっても、誰も余り口をきかなかった。日は西に傾いて、椎の木の影が崖下に長くのびていた。昔は田園だった低地の家根並の彼方、田端一帯の高台は、正面に日光を受けて、明るく暖く輝いていたが、椎の木の下はとっぷりと影になって、ほろろ寒かった。良一はその椎の木をさほど立派だとも思わなかった。