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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

と云いかけて、甲斐はかなりながいこと黙っていたが、やがて眼をあげ、部屋の向うの暗い一点をみつめながら、そっと自分に頷いた、「――そうだ、待つことはない、直接の助言があるなしにかかわらず、京へ訴えた、という事実だけでも役に立つ、喜兵衛の帰りを待つまでもなく、事態の動きによっては一と当て当てることにしよう、一と当て、――酒井か、板倉か」

まもなく、甲斐は机の上を片づけて立った。顔を洗って寝ようと思い、襖をあけると、次の間に成瀬久馬がいた。灯のない部屋の暗がりに端坐しており、甲斐を見ると手を突いて、御用でございますかと云った。

「どうしたのだ」と甲斐は咎めた、「もう夜半すぎだというのになにをしている」

久馬は黙って平伏した。

「宿直はならぬと云ってある、誰かに申しつけられたのか」と甲斐は訊いた、「誰に申しつけられた、惣左衛門か」

「一存でございます」と久馬が答えた。

久馬も世評に昏まされているのだ、と甲斐は思った。家中に自分を覘っている者がある、そういう噂は正月ごろから聞いていた。原田ではまえから宿直を禁じて来たが、その噂が弘まると、家老の堀内惣左衛門が、ひそかに宿直番を設けようとした。