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もみノきはのこった

樅ノ木は残った

山本 周五郎

04 第四部

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 145,078 字 · 285 页

青空文庫

臨終の苦痛が頭を悩乱させる一瞬は、生死を超脱した者でもあらぬふるまいをしやすいものだ。周防が心配したのはその点であり、顔を見たい、と本当に云ったとすれば、彼自身がおそれていたように、悩乱のあまりみれんな気持が起こったのであろう。

――おれはゆくまい。

死の苦痛は長くはない。臨終の苦痛が去って、死の世界へおちつけば、おれが会いにゆかなかったことを、彼はよろこぶであろう。おまえが気をもむことはないのだ、戻って、おれの代りに水をとってやれ、と甲斐は云った。

それは少しも偽わりのない気持だった。いま思い返しても、自分のとった態度は正しかったと思うし、もちろん周防もわかってくれたろうと思う。そのことに疑いはないが、心の奥にある、辛いおもいは消えなかった。

――侍としては立派かもしれないが、人間としては無情すぎる。

惣左衛門はそう云った。云うまでもないことだ。しかし侍としても人間としても、甲斐にはそうする以外にやりようはなかった。甲斐にとっては、それが立派でもないし、無情でもない。そうせざるを得なかっただけであり、心の奥に辛いおもいが残るだけであった。

――辛いおもい。