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せっしょうだにのおにび
殺生谷の鬼火
山本 周五郎
「新少年」1937(昭和12)年9月
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 9,545 字 · 19 页
なにしろ途中殺生谷の近くを通らなければならぬので、彼はもう足も地につかぬ気持で急いだ、――そしてようやく其処を通抜けてやれやれと思ったとたんに、右手の闇の中から突然、
「あーッ助けてえ※(感嘆符二つ、1-8-75)」
という女の悲鳴が聞えて来た。
吾平は息も止まるほど驚いたが、それでも必死の勇を鼓して声のする方へ近寄って行った。すると――甜菜畑の向うのところを、一人の婦人がさんばら髪になって眼を吊上げ、まるで見えぬ手で引摺られるように、よろよろと殺生谷の方へよろめいて行くのが見えた。然もその婦人の周囲を、青白い大きな、獣のような形をした火の玉が、くるくると恐ろしい早さで舞狂っているのである。
「鬼火が人を殺生谷へ曳いて行く」
吾平はそう思いながら、歯の根も合わず見戍っていたが、やがて、自分の危険に気付くと夢中で其処を逃げだして了った。
「――その婦人が奥さまでごぜえました」
平造老人は身震いをしながら云った、「俺らは直ぐに作男や小作人たちを集めて駆けつけましただが――駄目でがした。殺生谷の入口のところで、木枝に引懸っていた奥様の着物の袖をみつけたのがせめてもの事、今日まで未だ死骸もあがりましねえだ」